どうしようかな
2月7日。
一年近くまともに走っていません。
目の前にある募集要項に、決断を迫られます。
ぼんやりと空を眺めまわしては
聞こえてないふり。
それはそうと、今月(2月)の掲示板の言葉の味わいを一部、
訂正しましたことをお知らせします。
紙の表面(山門前掲示板)の右下あたりです。
訂正前↓
訂正後↓
訂正前の文章では、
「微塵世界」が「塵(ちり)のように小さな世界」みたいな
ニュアンスになっていました。
そんな、ちっさい世界だけを指した言葉ではありません。
微塵
「微塵」だけの意味としては、こまかい塵(ちり)ということです。
御開山は「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし…」の御和讃にて、
「微塵」という語に、「コマカナルチリ」と御左訓されています。
(写真:国宝本)
しかし、「こまかなる塵のような小さい世界」の、念仏の衆生を
みそなわれたのでは、私は抜け落ちてしまいます。
「微塵世界」とは、そのような意味ではないということです。
微塵世界
「微塵世界」とは、空気中に舞う塵やほこりが無数にあるが如く、
「数限りない世界」を表す言葉です。
『唯信鈔文意』には、
「この如来、微塵世界にみちみちたまへり、
すなはち一切群生海の心なり。」
とあります。
「一切群生会海」、つまり、
無限の宇宙から、どんな小さい世界までも含んだ
全ての生きとし生けるものの世界を「微塵世界」は網羅しています。
また、続いて
「この報身より応・化等の無量無数の身をあらはして、
微塵世界に無礙の智慧光を放たしめたまふゆゑに…」
とありますから、
ミジンコでもクジラでも、
それぞれの世界にそれぞれに応じた如来ましまして、
闇を照らし、育み、抱き摂ってくださるということです。
すなわち、私もその中という話です。
ちなみに、『往生要集』の「畜生」の説明にて、
「窓のなかの遊塵(ゆじん)のごときもの」とありますから、
塵の如き生命体(畜生)が存在し、
そいつにはそいつの世界があるはずです。
そうすると、訂正前の文章の「チリ一つに至るまで」という表現も
あながちおかしすぎはしないような気がしないでもないですが、
あまりに「微塵」という譬えの言葉に引っ張られすぎていると、
一人思い直し、訂正に至りました。
以上、訂正に対する言い訳でした。
誰が読むんですかこんなの。
余談ですが、「微塵」という語は、
「隙遊塵(げきゆじん)」という言葉から来ていると
聞いたことがありますが、出拠がわかりません。
ご存知の方がいれば、そっと私に教えてください。
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